東京・晴海に林立する孤島のタワマン
高層マンションが立ち並び、近代的なウォーターフロントとして知られる東京都中央区晴海。東京五輪選手村跡地を改造して生まれた「HARUMI FLAG(晴海フラッグ)」は、将来の値上がりを期待した投資の過熱で、今なお話題になっている(※1)。
そんな晴海の問題は、今なお鉄道駅から遠く離れていること。かつて、東京港を代表する埠頭として開発された晴海には、臨海部に張り巡らされた貨物専用鉄道「東京都港湾局専用線」が縦横無尽に走っていた。
その遺産である晴海と豊洲をまたぐ春海運河にかかる「旧晴海鉄道橋」では保存のための工事が進められており、今年夏以降に遊歩道としてオープンする予定だ(※2)。
しかし、ここで疑問が残る。かつて鉄道線路が張り巡らされていたにも拘わらず、なぜ晴海には鉄道駅が建設されなかったのか。
そこには、晴海誕生以来の開発頓挫の忘れられた歴史があった。
※1 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240527/k10014461811000.html
※2 https://www.kouwan.metro.tokyo.lg.jp/documents/d/kouwan/21390_hp_01_harumitetsudo_r6
明治時代に始まった土地造成
現在の勝どき・晴海にあたる地域は、明治以降に東京湾の浚渫土を利用して造成された埋立地である。
明治時代まで、隅田川の河口は現在の石川島公園付近にあり、その先に石川島と佃島が浮かんでいた。この二つの島の周囲には浅瀬が広がっており(※3)、水運や港の開発を進めるには川底をさらう浚渫が不可欠だった。そこで、東京府会では1883年に航路浚渫事業の「東京湾澪浚」を決定、1887年以降には浚渫土を利用して土地造成が実施されることになった(※4)。
余談だが、河口付近が浅瀬という状況は浚渫が始まってからも長らく続いていて、石川島公園の先の隅田川と晴海運河を分かつ付近は、たびたび水死体が打ち上げられる場所であり、供養のための塔婆が水上に乱立している光景が、戦後しばらくまでは見られた(※5)。
この後、航路を確保するための浚渫と、その土砂を利用して海上を埋め立てて築港する方針は本格的に進み、現在の、月島(月島一号地)、勝どき(月島二号地・月島三号地)、晴海(月島四号地)が誕生していくことになる。
一号地、二号地、三号地はもともとあった佃島や石川島を拡張する形で埋め立てが進み、大正時代には完成を見た。現在のように堤防はなく、台風シーズンになると高潮で溺死者が出ることが繰り返されるような土地であったが、石川島の造船所をはじめ工場とそれに連なる長屋が建ち並び、さらには水上生活者も集う湾岸の工業地帯としての発展をみた。
※3 https://www.cst.nihon-u.ac.jp/research/gakujutu/61/pdf/J-42.pdf
※4 豊島寛彰『隅田川とその両岸 上巻』芳洲書院 1962年
※5 『中央区史 中巻』1958年