人間には失敗する権利がある
おそらく、この失敗する権利はAIには与えられないと思われる。そして、その体験が成功に結びつくためには、長い年月も必要となるだろう。失敗体験が歳を重ねて熟成し、発酵するまでに時間がかかるせいだ。
だが、この体験の化学変化は、思考の量とスピードに特化したAI型思考では達成されないだろう。人間が機械でなく生命であるという事実を忘れないように。
生命は時間軸の中で変化できる存在だ。
現代の進化論では、生物の進化の歴史はDNAを子孫に伝える際に発生するコピーミスにより、はじめて成立することを探りあてた。失敗すなわち変化や差異が生じることこそが進化の原動力だった。
DNAを介する世代交代がいつも成功ばかりだったら、生命は変化することがなかったろう。だからこそ、DNAからmRNAへの遺伝情報の受け渡しという、わざわざコピーミスが起こりやすいプロセスを創出したのではないだろうか。
そうであるなら、人が開発した脳による認識や思考のプロセスにも、オスとメスによるエラー発生装置がしこまれていたはずだ。
オスとメスが遺伝子の交換をおこなって子孫にそのコピーを受け渡すという、ほんとうに面倒くさい繁殖法を採用したのも、エラーが起きる可能性を担保するためだったと考えられるほどに。
「アマチュア」のすすめ
ところで、好きなことは他人にいわれなくても自発的にせっせとやれるものである。こういう好きなことを自発的にやりつづける人のことを、西洋では「amateur(アマチュア)」と呼ぶ。
学問することを心から喜び、いっさいの利益を期待せず、また自分の挙げた成果を他人とも無償で共有できる人たちだ。いっぽう、学問することで給料を支給され、論文を書くと学位を授与され、学会の権威ともなる専門家を、プロフェッショナルと呼ぶ。
これが「アマ」と「プロ」の本来の意味だったが、日本語ではとらえ方がちょっと違う。
欧米では、どちらが社会的に尊敬されるかと考えると、「アマ」のほうだといえるからだ。日本ならば東大の教授あたりが最高のプロだろうが、西洋で尊敬されるのは、じつは無私の精神で純粋に学問を愛するアマチュアのほうなのだ。