春の風物詩としての「最近の若者は」
春がくるたび、街には初々しいスーツ姿の新社会人が溢れる。その姿を横目に、私たちはいつの間にか毎年恒例のように「今年の新入社員は○○だ」などと話し始める。
曰く、「最近の若者は叱られ慣れていない」「自己主張がなく指示待ちだ」「コミュニケーション力が弱い」――そんな「今年の新入社員論」がビジネス誌やニュースサイトの誌面を飾り、SNS上でも共感を集める。このプレジデントオンラインでも、4月に入って早々そうした記事がいくつも出され、そのつど話題を集めているようだ。
毎年の風物詩となっている「今年の新入社員は○○だ」ネタの2025年版は、「今年の新入社員はマスク世代(コロナ世代)だ」である。コロナ世代、マスク世代と名付けられたかれらは学生生活の大半を「コロナ禍」と呼ばれた期間のなかで過ごし、表情を隠すマスクをつけ続けてきた。その結果として、対人関係の構築や感情表現に苦手意識を持つとされている。
だが、私はその“他人事”のような批評に対して強い違和感を覚えずにはいられない。なぜなら、マスクをつけさせたのは、かれら自身ではなく、私たち大人側――社会そのものだったはずだからだ。
これから議論を進めるにあたり、まず私たちが立つべきは、「マスク世代」と名付けられた若者たちの「弱さ」を観察しあれこれ品評する立場ではない。その「弱さ」を作った社会の一員であるという立場をわきまえるべきだろう。
ここから少しずつ、そのことについて考えてみたい。
新しい生活様式という“青春の否定”
忘れるはずもない2020年。
新型コロナウイルスのパンデミックが始まると、「新しい生活様式」という言葉が社会全体を覆い尽くした。これは感染拡大を防ぐための行動指針として提唱されたもので、政府や専門家、メディアを中心に瞬く間に浸透した。人との距離を取ること、密集を避けること、会話を控えること、そして外出を最小限にすること――社会的な合意形成を経て、これらが「善」とされるようになった。
子どもたちや若者たちも例外なく、そのルールに従わざるを得なかった。むしろかれらは、大人以上に徹底的に監視され、管理される立場に置かれたといっても過言ではない。世間は「自粛要請」だったかもしれないが、かれらはさながら「自粛強制」とでもいうべき状況におかれていた。学校では授業中はもちろん、給食や昼食時の会話は禁止され、「黙食」などという奇怪な名称でもって、異様なまでに静かな給食時間を徹底された。カフェやファストフード店やカラオケで友達と笑い合い、会話を交わすというごく自然な行為が、あたかも非道徳的で危険な行為であるかのように扱われた。