戦国時代、もっとも世渡りが上手かった武将は誰か。歴史評論家の香原斗志さんは「真田昌幸だろう。家康に2度も攻め込まれながらも、明治時代まで家を残したのは彼の智謀によるところが大きい」という――。
戦国屈指の世渡り上手だった武将
戦国武将のなかでもとりわけ才知に長け、豊臣秀吉や徳川家康をはじめ格上の武将たちと渡り合い、翻弄し、幾多の苦難を潜り抜けた。こうした世渡りが飛びぬけて上手かったため、江戸時代をとおして家を存続させることに成功した。そんな人物が真田昌幸である。
だが、もともとは武将でさえなかった。武田家に仕える真田幸綱の三男なので、家督を継ぐ可能性は低く、早くから武藤という家に養子に出され、足軽30人を従える足軽大将になっていた。だが、2人の兄、信綱と昌輝が天正3年(1575)の長篠合戦で戦死したため、真田家に戻って家督を継承することになった。
真田家は信濃国(長野県)小県郡真田(上田市)が拠点だったが、昌幸は小田原の北条氏の所領だった上野国(群馬県)東部の沼田領(沼田市)に侵攻。ついには沼田領の拠点、沼田城を手に入れている。
天正10年(1582)3月、織田信長と徳川家康の連合軍に攻められて武田氏が滅亡すると、すぐに信長に臣従したが、この判断および変わり身の早さこそ、真田昌幸の生涯において真骨頂だった。
信長が甲斐国(山梨県)に配置した滝川一益の与力になり、沼田城は差し出した昌幸だったが、3カ月後に織田信長が本能寺に斃れると、旧武田領で徳川家康、北条氏政、上杉景勝による領土の争奪戦がはじまった。ここからの昌幸は、まさに変幻自在に立ち回る。